窓から眩しい光が差してくる。朝か。
目を開け、体を起こす。目覚めは良く、気持ちよく起きられた。
暫くして、病室のドアが開く。
「せんせえ!起きて!おはようございナース!…ってせんせえもう起きてるじゃん」
元気な声で俺を起こしに来てくれたナース。彼女は名取さな。患者の俺を何故か「せんせえ」と呼ぶ。理由は不明。
彼女は恐ろしい程に可愛いので話しかけられる度にドキッとしてしまう。それを悟られたら負けた気がするので平然を装ってふざけて返す。
「えらかろ〜?」
「はいはい、えらいえらい。朝ごはん持ってくるからちゃんと待ってるんだよ!待て!!!」
俺を犬か何かだと思っているのかこのナースは。
名取を待つ間、暇なので病室の日めくりカレンダーをめくる。
『3月6日!まだ寒(36)いけどがんばろう!』
という、センスの欠片も感じられないような一文が書かれている。
ん?3月6日…?何かを忘れている気が…
そんなことを考えていると名取が部屋に朝食を届けに来てくれた。
「はい、せんせえ。ちゃんと残さず食べるんだよ」
「へいへい」
美味しい朝食を食べ終わったので外に…は行かずにベッドに戻る。
実は俺は病人なのだ。それでこの「バーチャルサナトリウム」にいるのだが、正直自覚がない。体のどこかが痛いとか、具合が悪いとか、それといった症状が無いのだ。ここに入れられた記憶も無く、気づいたらこの部屋に寝ていた。何かしら裏があるかもしれないが、名取との日々はこれ以上ないほどに幸せで、出る理由も無いのでここに留まっている。
ベッドに入ると背もたれを起こし、パソコンを起動する。このパソコンは、俺が病室での生活があまりにも暇だったので、特別に置かせてもらった物だ。これが無ければ名取がいるとはいえ、ここから逃げ出していただろう。
カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響く。
ネットニュースを見漁ったりまとめサイトを見たり、動画を見たり漫画を読んだり、それを一通り終えると名取が扉を開けた。
「せーんせ!お昼ですよー!」
いつの間にか昼食の時間になっていたようだ。
名取が持ってきた昼食を食べる。
「せんせえ、またずっとパソコンいじってたでしょ」
「暇なんだからしょうがないだろ」
「暇なら名取とお喋りしてくださいよー。名取も暇なんですから」
なんで暇なんだよ。お仕事をして下さいナースさん。
「俺は病室から勝手に出れないんだよ」
「ナースコールがあるじゃないですか!困った時はナースコール!これ基本ですよ?」
「そんな使い方して怒られないのかよ…」
「大丈夫ですよ!…たぶん」
「たぶんって…」
何はともあれ暇なときはナースコールを押せば名取と話せるらしい。正直どうかしてるとは思うがそこは気にせずに行こう。
「あ、ご飯食べ終わったら時間なので外行きましょうね」
「りょーかい」
このバーチャルサナトリウムには外出時間が設けられている。患者が精神を病まないようにという理由らしい。そんなことなら常に外出OKにして欲しいものだが、そうすると監視の目が行き届かなくて患者が気づかないうちに怪我をしている、みたいな事態が発生しかねないのでそれは出来ないという。お暇なナースさんがここにいるんだからこの人にやらせればいいと思いますが。
昼食をさっさと食べ終わり、外に出る。3月である筈なのに肌寒さは感じられず、寧ろ暖かい。目に入ってくるのは一面緑色の芝生に澄んだ湖と川。何度来てもこの庭は素晴らしい。景色が綺麗で空気も澄んでいるし、もし俺が精神病を患っていたとしてもここに来れば治るだろうとすら思える。
俺にはここでのお気に入りの場所がある。湖のほとりにある木の上だ。そこは綺麗な景色と空気を1番感じられる場所なのだ。
いつものようにお気に入りの場所へ向かう。一歩一歩踏みしめる度に足の裏に自分の体重を感じる。横に目を向けると名取がぴったりと着いてきていた。
目的地に着く。定位置に座ると景色を眺める。名取は俺の隣に座る。ここでいつものように2人で楽しくおしゃべりする。
「…せんせえ」
「ん?どうした?」
「明日…いや、なんでもないです!」
「おう…そうか…」
何だったんだろうか。本人が別にいいと言うのなら詮索はしないが。
それからも取り留めのない話が続く。今日こんなことがあった。こんな嬉しいことがあった。こんな失敗をした。そんな下らない話。そんな話をしている時が俺にとって一番幸せだった。
「あ、時間ですよ、せんせえ」
幸せな時間はすぐに過ぎ去るもので、気づけば外出時間は終わっていた。
部屋に戻り、またベッドに入る。
疲れ切ってしまい、パソコンを開く余裕もない。ただぼーっとカレンダーを見ていると急に部屋に風が吹いた。カレンダーがめくれて真っ赤な印が見える。
「なんだ…?」
カレンダーを一枚めくってみると赤字で『名取の誕生日!!!』と書かれている。
完全に忘れていた。
プレゼント。何も用意出来ていない。どうすればいいのだろう。
そんな事を考えながら部屋の中をぐるぐる歩き回る。
今からネットで注文しても明日までに届くとは思えないし、かといって勝手に外に出ることは許されていない。……そうか。許可を取れば。
もう少ししたら今日の定期診察の為に院長が来るだろう。その時に何としてでも許可を取ってやる。
暫くすると案の定院長が入ってきた。
「…じゃあ今日の診察終わりね。お疲れ様」
「院長、お願いがあるんですが」
「なにかね」
「…外出許可を下さい」
「だめだ」
即答だった。
「誰かを同伴させるとかでもいいんです!どうしても買いに行きたいものがあって…!」
「じゃあ代わりに私が買ってきてあげよう。何が欲しいんだい?」
「ダメなんです!どうしても自分で買いに行かないとダメなんです!」
名取へのプレゼントは絶対に自分で買ったものにしたかった。自分でも面倒臭い奴だなと思うが、これだけは譲れなかった。
「だめだ。君を外に出す訳にはいけない。どうしてもだ」
院長はそう言うと足早に出て行ってしまった。
「くそっ…」
こうなってしまったらここから出る方法は1つしかない。
もうやるしかない。
俺は脱走計画を立て始めた。
「……よし」
時刻は午後7時。大体の計画が出来た。後は成り行きに任せるとしよう。
脱走開始だ。
この部屋から出ることが出来る場所は窓だけだ。ドアは鍵がかかっているし、かなり重いので壊すのは容易ではないだろう。一方窓は鍵が開けられる。問題は窓の奥にある鉄柵だ。
窓を開けて柵に手をかけてみる。そこから思い切り手を引く。すると、いとも容易く壊れてしまった。自分でも驚きだ。恐らく脆くなっていたのだろう。
思った以上に簡単に部屋から出られたため、多くの計画が無駄になってしまったが、まぁいい。次のフェーズに移行しよう。
次は病院から出なければならない。病院の門の位置は以前、外出時間に座る木から見えたので知っている。
門の前に着くと、助走をつけて跳びこえる。2m程ある門だったが、軽く飛び越えることが出来た。先程の柵の件といい、これが火事場の馬鹿力ってやつなんだろうか。
急いで街へ走る。病院から街までは近い。街は人で埋め尽くされていた。病衣の俺が目立たなくて好都合だ。
ふと目に入った雑貨屋に入る。文房具から日用品まで色々なものが置かれている。
そこで一際目立つものがあった。兎のぬいぐるみだ。ピンク色の兎で顔には✕が描かれており、包丁を持っている。少し怖いかとも思ったが、直感的にこれを渡せば名取が喜んでくれる気がした。
「よし、これにしよう」
そう呟くとぬいぐるみを持って足早に病院に戻る。脱走したと悟られてはいけない。壊れた柵の言い訳は…どうしよう。まぁいい。帰ってから考えよう。
名取に渡すと思うだけで心が躍る。どんな反応をするんだろうか。喜んでくれるだろうか。何て言って渡そうか。渡すついでに名取に俺の名取への想いも伝え──。
気づくと俺は病室のベッドで寝ていた。奇妙だが、ぬいぐるみはベッドに置かれているのでちゃんと帰ってきたのだろう。集中し過ぎて意識が無くなっていたのかもしれない。
「……そうだ、時間!」
出来れば0時ちょうどに渡したかった。その方がロマンチックだ。
時計の針は午後11時55分を指していた。ギリギリ間に合ったようだ。
5分間が異様に長い。時計の針が動く音だけが部屋に響く。心臓の鼓動が自分でもはっきりと分かる。深呼吸をして落ち着こうとする。
あと3分。
あと1分。
あと10秒。
5…4…3…2…1…0。
ナースコールを押した。
心臓が一層高鳴る。呼吸が荒くなる。
大丈夫。大丈夫だ。よし。
扉が開いた。
「どうしたのせんせ─」
「誕生日おめでとう!名取!」
名取は目を丸くして棒立ちになっている。
「え、お、覚えててくれたんだ…」
「当たり前だろ」
カレンダー見るまで忘れてたけど。
「はい、プレゼント」
背中に隠していたぬいぐるみを渡す。
「ありがとう!あ!うさぎのぬいぐるみだ!かわいい〜!うさちゃんせんせえ!」
飛び上がって喜んでくれている。渡したこっちも嬉しくなってしまう。泣きそうだ。
「ありがとね!せんせえ!」
「…どういたしまして」
泣きそうなのを悟られないよう、小声で呟いた。
こんなに喜んでくれているのに空気を壊しちゃいけないな、うん。今回は見送ろう。しょうがない。
告白はまた今度にしよう。
『おはよ──あ、昨日?どういたしまして──喜んでくれて俺も嬉しいよ』
画面の中で、ある男が誰かと談笑している。
その笑顔は、見ているこちらも笑顔になってしまうような澄んだ笑顔だ。今この時が人生で1番幸せだと言わんばかりに楽しそうである。
──まぁ、部屋には彼1人しかいないのだが。
ここは主に精神疾患を患った人が集まるサナトリウム。彼も患者の1人だ。
彼はかなりの重症患者で、何度も危険な行動を行ったため、監視体制が敷かれている。
彼の部屋には監視カメラが置かれており、それをチェックするのが私の仕事だ。
私がいつものように監視カメラの映像を見ていると、後ろで監視室のドアが開いた。
後ろを振り返ると、白い顎髭を伸ばした白衣の老人が歩いてくる。
この人はこのサナトリウムの院長である。脳科学の権威で、”“人間の脳を摘出してコンピューター上にその精神を移す”技術の研究の第一人者だ。その研究は世界的に評価され、ノーベル賞まで受賞した。
「彼の様子はどうかね」
「ますます酷くなっています。このまま放置すれば、大問題を引き起こす可能性もあります」
「では、あの部屋から出してみてはどうだろうか。あんな場所にいれば誰だって気が狂ってしまう」
「先生は忘れたんですか?彼をあの部屋に入れた理由を。」
彼は10数度もの危険行動を取った結果、監視部屋に入れられている。その危険行動も始めは家具を壊すなどの大したことないことだった。しかし、先日は窓の鉄柵を破壊して外に出ていった上に街の雑貨屋から商品を盗んできた。我々が事後処理をしていなかったらどうなっていたことか。
「しかもこのまま放置すれば彼だって…」
彼は脳がおかしくなって常にアドレナリンが過剰分泌し続けている状態だ。放置すれば遠くないうちに死んでしまうだろう。
「そうか…やるしかないのか…」
先生はそう言うとため息をつく。どこか訝しげな表情を浮かべている。
電脳世界で生きること。それが人間にとって幸せかどうかを憂いているのだろうか。
彼が電脳世界でも「空想の世界」を維持出来るかは分からない。 いや、脳が我々の管理下に置かれるということは、正常な状態にしておくということ。十中八九維持出来ないだろう。
真っ白な世界でたった一人。恐ろしいほどの苦痛だろう。もはや生き地獄なのかもしれない。
…ちょっと待てよ。あのデータを使えば…。
「先生、見せたいものがあります」
画面に映るのはナースの格好をした可愛らしい女の子。赤い目に控えめな胸。ハートが描かれたピンクのエプロンを着ており、うさぎの髪留めをつけている。名前の欄には『名取さな』と書いてある。
「これは…何かね?」
「彼の言動から得た、彼の話し相手のデータをまとめたものです」
「これをどうしろというんだ」
「このデータを学習させたAIを電脳世界へ一緒に入れるんです」
「それでどうにかなるものなのか…?」
「これは言わば彼の作りだした理想です。彼女がいるだけでそこはもう彼にとっての理想郷でしょう」
「なるほど…でもこの胸でいいのか…?もっと大きい方が…」
「小さいのが好きな人もいるんです!」
「す、すまない。ではその方向で進めよう。私ももう老いぼれだ。その辺の考えに関しては君の方が的確だろう。君の考えに従うよ」
「ありがとうございます」
先生は「電脳世界の方の設定は任せる」と言って手術室へ向かって行った。
さて、どうしようか。
「この病院の名前どうしようかな…適当に『バーチャルサナトリウム』でいいか」
バーチャルサナトリウム。名取さなとかかってて良いかもしれない。
「猫も置いとこうかな」
動物がいるだけで心的余裕が格段に違うだろう。
「彼のアバターは…こんな感じでいいか」
自分でモデリングをした結果、全身ナスでできた球体状の謎の生物が出来上がってしまった。これはこれで愛嬌が出ていいかもしれない。ブサカワイイってやつだ。
「あとは…やっぱりこれかな」
彼がここから脱走してまで手に入れようとした兎のぬいぐるみ。これは入れてやらなければいけない気がする。
どんどん手が進む。思わず笑いが漏れる。楽しくて仕方がない。
今まで憂鬱でしかなかった仕事も喜びに変わる。
ただ患者精神を病んでいくのを眺めているだけという拷問のような仕事から、患者の未来を願う希望に満ち溢れた仕事に変わった。
患者には幸せになって欲しい。今までは感情を殺し続けてきたことで失っていた気持ち。その感情が爆発する。
「名取さな」
彼女がバーチャルナースとして多くの人間の心を救ってくれる事を祈っている。